気づき屋さんの話

 

ふぁっきん世の中塵積お山で殺意バリ高世は無情

 

 

 

 

 

 

 

正直ブログにしてまで書くことは減ったんだけど、たまには書いてみるかという気まぐれ。

 

上のはリズム重視でぼくのマインドを表現した一文だけど、そもそも怒りが持続しないタイプなので毎日賑やかに過ごしています感想。

埼玉育ちでぬくぬくっ子が東京に放り出され、感情バトル叩きつけられることも増えましたが、根っこが雑なので元気です。野菜も極限状態で美味しくなるっていうじゃん?ぼくは不味くてもいいので甘やかされたいです。おらショパンでも流せよ。

気にし屋さんって多いと思うんですけど、意外とぼくもその一人だったり。そんでもって悲しいことに、社会において気にする人って確実に損します。もちろん、気になった箇所をどうこうする気持ち、その力があるに越したことはないし、自覚の有る無しに客観的に見てある人は大丈夫です。成功失敗問わず、やったというのは大きな功績ですから。

鈍感な人って、そこまでマイナスじゃないです。一番大変なのは気にしていた、気づいていたというのを「表に出す」人。

 

小学生の頃とかって、多分気づいただけで偉いね!って言われてたと思うんですよ。確かに気づきは偉いんですけど、無菌室や監禁とかされてない限り、どうこうしようと動く力はぼくらにもう備わってるんですよ。それを怖いから使わないけど、でも黙ってみてた訳じゃない、気づく能力はあるよっていうアピール。しちゃう人いると思います。

なら気づいたのに、声すら出さなかったの?一人じゃ動けなくても、周りに言えたんじゃないの?そうなります。

気づいていることに気づいてもらうのって、とても難しい。だって無言で仕事していれば順調かな?と誰だって思うでしょ。他の人がヘルプを出していればそっちに向かって当然である。

 

ただの感想としていえば、私は気づいてましたよアピールする人って結局最後までどちらが得をするか決めかねてる人だなっていう。

実際もっとシンプルで、嫌いなもの、苦手なものを目にしたときに、食うか食わないかの差でしかないんですけどね。先生!ぼくの嫌いなものがあります!っていって褒められるか?例えばそれを食べられる友達に食べてもらう、自分で食う、もしくは隠れて捨てる、しれっと片付けのときに返す、そんな風にすれば良くない?こう雑に考えると、アピールの無意味さが浮き彫りである。

 

 

まぁなんだ、世の中無情とか言ったけど、情を擦り付けられせびられたらそうもなるわな、と思う今日この頃。