尊厳欲求、承認欲求の話

 

「私ってダメだから…」に対して「そんな事ないよ!」と言われたい人間の心理について問われたので、心理学を用いながらの書留。

今後問われたときのための書き残しであり、今のぼくがどういきてるかの書き残し。

 

 

 

 

 

 

 

 

マズロー欲求五段階説

 

↑高度な欲求(内的に満たされたい)

自己実現欲求(自分の能力を高めたい)

尊厳欲求(認められたい、尊敬されたい)

-------------内的・外的欲求の境目---------------

社会的欲求(社会への帰属、仲間が欲しい)

安全欲求(危機回避、安全安心を求める)

生理的欲求(寝たい、食べたい等の本能)

↓低度の欲求・基礎的・本能的(外的に満たされたい)

 

 

日本社会に生きてるならば、大抵外的な欲求は満たされている。

他人に「そんな事ないよ!」と言ってもらいたい人はまぁどう考えても尊厳欲求、つまり承認欲求が満たされてないわけで。それを満たすために他人を使っているということ。

もちろん他人に認めてもらうことが悪いことじゃない。が省略。思考がそれる。

 

 

 

 

何故こういう風に「自分を卑下し、他人に卑下したことを否定してもらおう」という人がいるのか。という疑問に対して。

 

簡単に言えば、承認欲求を満たすのに手っ取り早いからである。

 

今いる時点を0として、プラスマイナス100のグラフを考えてみる。「私はダメ人間でなにもできない」という発言で、自分の実力を0からマイナス50してみる。そこから、他者の「そんなことないよ!」で卑下を否定、つまり打ち消すことによりプラス50する。そうすると、0に戻る。

結局0じゃん、と思うかもしれないが、これの注目する点は、「何もしなくてもあわせて100の移動が発生する」という点である。何もしなくても、自分が変わらなくても、他人に認めてもらえるということ。わーいお手軽だー。

 

 

 

これを説明するときに、階段を使ってみた。

自分を卑下することは、今いる階段から一つ下がること。それを否定してもらうことは、手を繋いで階段を一つ上がること。既に上ったことがある階段だから下がることも上がることも簡単にできる。けれど、人の手を借りたら、もっと簡単に上がれるね。

最悪、一人でも上がれるってのがポイント。誰も手を伸ばしてくれなくても一人で大丈夫なことを、わざと人の手を借りるのだ。

子どもの嘘泣きみたいな簡単なことで、でも大人だからめんどくさい方法なんだよ。

 

上に上がるのは、やっぱり高さも段数もわからないから大変だ。プラス50頑張ったところで、認めてもらえるのはプラス50だけ。そしたらまぁ、簡単に階段降りて、自分でもなんなく上がれる階段昇る方にするよね?っていう。

 

 

 

 

尊厳欲求が自己で満たされまくってる人にはいまいちわかりづらそうだったので、水にも例えてみた。

尊厳欲求の箱があって、水が満杯なとき、尊厳欲求が満たされている。けれど水は、時間が立つにつれて蒸発してくる。

 

ある一定ラインまでは自分で水を入れられるけど、栄養剤として他人から水が欲しい人もいる。

一人で水を満杯まで入れられるけど、たまには他人の水が欲しい人もいる。

一人で水を満杯まで入れられるし、他人の水も別に欲しいわけじゃないけど、入れてもらえたら嬉しい人もいる。

あるいは、全部他人に水を入れて欲しい人もいる。

逆に、他人からの水は絶対にほしくない人もいる。余計なもんいれんなよって。

 

 

いろんなもんとりこめば育つ植物もいるし、余計なもんのせいで腐る植物もいる。

 

 

 

これを説明した相手ってのが本当他人の水いらねぇ派で、「私ってダメだから…こういうところあるし…」に対して「そうだね。確かにそういうところあるよね」って素で答えてだいぶ揉めて周りの人間が思わず止めるような惨事を引き起こしたので、尊厳欲求満たしたい人も誰彼構わずじゃなくて相手は選ぼうね。

他人の水要らない人は、他人にだって水あげないのでお互いしんどいから。誰も悪くないけど強いて言うなら相性が悪い。

需要と供給ってマジですごくて、他人に「そんなことないよ!」って言うことで満たされる人間もいるから。

 

 

再三言うけど別に悪いことは誰にも一つもないんだよね。ただ、それを望んでいない他者に無理矢理あげたり、欲しがってる他者を見捨てたりすると摩擦が起きるってだけで。

なんでこんなめんどくさいことをしなきゃいけないのかというと、まぁ社会で生きてるし、気づかなかったりありがた迷惑だったりする「気配り」「気遣い」もあるので、そこらへんはまぁ頑張ろうな。知性持っちゃったから諦めよう。社会に生きてるんだもの。

引きこもりしたって家族という極小コミュニティーあるからね。無人島で一人サバイバルするしかないね。知性もったからコミュニケーションができるし、その上自己があるから仕方ないね。往々にしてぼくらは自己中心的で、それは当然のことで、自分が見える範囲しかわからないんだから。

たまにそんなことぐらいわかってよ!みたいな人いるけど、悟られたいか?ぼくはごめんだなぁ。おっぱい見てるのばれる。あの人尻薄くて最高だなとかバレたら死ねる。というか捕まるし殺される。

 

 

 

ちなみにぼくは自分で完結できるけど、「えっ水くれるんすか?マジで?ウィースあざーす」みたい感じ。

特に必要ないときに水くれる人いるけど、その時々に断ったりもらったりもするよ。例えばそれが、全員に水あげなきゃ!という焦りに駈られてる人からだったり、全員にあげてるからこの人にもあげないと外聞が…という人からだったりしたら、まぁ甘んじて受けたりもする。ぼくにわかる範囲で察せられるならば、さすがに断ったりはしない。ひいてはそれはぼくのためになるのだから。

もちろん、これ以上は腐ると思えば断るけどね。

 

 

僕自身、他人から水が欲しいアピールを露骨にする行為の対応ってそんなに得意じゃないんだけど、だからってその人が嫌いではなければある程度は付き合うぞ。

社会にいる以上、あからさまな拒絶っていうのは、何よりも自分のためにならないので。

それは学校や会社に限った話じゃなくて、何らかのコミュニティー、つまり友達間や家族間でもそうなわけで。壊れたものは修復できるけど、なかったことになるわけじゃないんだから、いずれ戻れなくなる。

よく壊れてきってしまったことを「その程度だった」なんていうけれど、その諦めはひどく悲しい。 それを繰り返せば誰もいなくなると言われて続けて「別にいい」とか「誰かいるし」と返すのは、いずれが来ていないだけに過ぎないんだけど。まぁ自覚できたらそんな返ししないよねっていう。

いずれが来たやつが「コミュニティーの中」にいると思うのか?

 

 

ぼくは自己完結できるけれど、ぼくが育てているのは「外に出してもある程度対応できるぼく」なので、外に出るたび、すりあわせを行うたび、いつだって怯えているよ。恐れているよ。ぼくの死を思うよ。

他者からある程度認知されていて、可もなく不可もなく、ぼくをはしっこに置いてくれて、ぼくが去るときはほんの少し惜しまれるような。

ぼくが好きな人たちに、ぼくに関わってくれている人たちに、そんな素敵な人たちとの縁を「その程度」で終わらせないような。

せっかくつかんだ縁を終わらせてたまるかと思うし、ぼくをその程度だと思わせてたまるか、という今までの努力と、その上に成り立つ傲慢を巻き込んで。

そうして、社会に出てる。ぼくを出している。これは作り上げた嘘でも人格でも外面でもなく、正しくぼくが活動していく姿である。

 

ぼくの怯え。それがバレなければ、そんな風にも思わせなければ、その匂いを感じさせなければ、ぼくの勝利だ。

ここで書くことによって知られるけども、もし会ったときにぼくの努力を感じなければ、それは勝利どころか大勝利ですね。

ちなみに性格上のビビりと怯えはまた違うので悪しからず。ぼくの怯えはあくまでも、社会に生きてて平気か否かだけなので。

 

 

さーて傲慢を振りかざしてお偉いさんとのお食事会頑張ろうなぼく。死ぬ。