尊厳欲求、承認欲求の話

 

「私ってダメだから…」に対して「そんな事ないよ!」と言われたい人間の心理について問われたので、心理学を用いながらの書留。

今後問われたときのための書き残しであり、今のぼくがどういきてるかの書き残し。

 

 

 

 

 

 

 

 

マズロー欲求五段階説

 

↑高度な欲求(内的に満たされたい)

自己実現欲求(自分の能力を高めたい)

尊厳欲求(認められたい、尊敬されたい)

-------------内的・外的欲求の境目---------------

社会的欲求(社会への帰属、仲間が欲しい)

安全欲求(危機回避、安全安心を求める)

生理的欲求(寝たい、食べたい等の本能)

↓低度の欲求・基礎的・本能的(外的に満たされたい)

 

 

日本社会に生きてるならば、大抵外的な欲求は満たされている。

他人に「そんな事ないよ!」と言ってもらいたい人はまぁどう考えても尊厳欲求、つまり承認欲求が満たされてないわけで。それを満たすために他人を使っているということ。

もちろん他人に認めてもらうことが悪いことじゃない。が省略。思考がそれる。

 

 

 

 

何故こういう風に「自分を卑下し、他人に卑下したことを否定してもらおう」という人がいるのか。という疑問に対して。

 

簡単に言えば、承認欲求を満たすのに手っ取り早いからである。

 

今いる時点を0として、プラスマイナス100のグラフを考えてみる。「私はダメ人間でなにもできない」という発言で、自分の実力を0からマイナス50してみる。そこから、他者の「そんなことないよ!」で卑下を否定、つまり打ち消すことによりプラス50する。そうすると、0に戻る。

結局0じゃん、と思うかもしれないが、これの注目する点は、「何もしなくてもあわせて100の移動が発生する」という点である。何もしなくても、自分が変わらなくても、他人に認めてもらえるということ。わーいお手軽だー。

 

 

 

これを説明するときに、階段を使ってみた。

自分を卑下することは、今いる階段から一つ下がること。それを否定してもらうことは、手を繋いで階段を一つ上がること。既に上ったことがある階段だから下がることも上がることも簡単にできる。けれど、人の手を借りたら、もっと簡単に上がれるね。

最悪、一人でも上がれるってのがポイント。誰も手を伸ばしてくれなくても一人で大丈夫なことを、わざと人の手を借りるのだ。

子どもの嘘泣きみたいな簡単なことで、でも大人だからめんどくさい方法なんだよ。

 

上に上がるのは、やっぱり高さも段数もわからないから大変だ。プラス50頑張ったところで、認めてもらえるのはプラス50だけ。そしたらまぁ、簡単に階段降りて、自分でもなんなく上がれる階段昇る方にするよね?っていう。

 

 

 

 

尊厳欲求が自己で満たされまくってる人にはいまいちわかりづらそうだったので、水にも例えてみた。

尊厳欲求の箱があって、水が満杯なとき、尊厳欲求が満たされている。けれど水は、時間が立つにつれて蒸発してくる。

 

ある一定ラインまでは自分で水を入れられるけど、栄養剤として他人から水が欲しい人もいる。

一人で水を満杯まで入れられるけど、たまには他人の水が欲しい人もいる。

一人で水を満杯まで入れられるし、他人の水も別に欲しいわけじゃないけど、入れてもらえたら嬉しい人もいる。

あるいは、全部他人に水を入れて欲しい人もいる。

逆に、他人からの水は絶対にほしくない人もいる。余計なもんいれんなよって。

 

 

いろんなもんとりこめば育つ植物もいるし、余計なもんのせいで腐る植物もいる。

 

 

 

これを説明した相手ってのが本当他人の水いらねぇ派で、「私ってダメだから…こういうところあるし…」に対して「そうだね。確かにそういうところあるよね」って素で答えてだいぶ揉めて周りの人間が思わず止めるような惨事を引き起こしたので、尊厳欲求満たしたい人も誰彼構わずじゃなくて相手は選ぼうね。

他人の水要らない人は、他人にだって水あげないのでお互いしんどいから。誰も悪くないけど強いて言うなら相性が悪い。

需要と供給ってマジですごくて、他人に「そんなことないよ!」って言うことで満たされる人間もいるから。

 

 

再三言うけど別に悪いことは誰にも一つもないんだよね。ただ、それを望んでいない他者に無理矢理あげたり、欲しがってる他者を見捨てたりすると摩擦が起きるってだけで。

なんでこんなめんどくさいことをしなきゃいけないのかというと、まぁ社会で生きてるし、気づかなかったりありがた迷惑だったりする「気配り」「気遣い」もあるので、そこらへんはまぁ頑張ろうな。知性持っちゃったから諦めよう。社会に生きてるんだもの。

引きこもりしたって家族という極小コミュニティーあるからね。無人島で一人サバイバルするしかないね。知性もったからコミュニケーションができるし、その上自己があるから仕方ないね。往々にしてぼくらは自己中心的で、それは当然のことで、自分が見える範囲しかわからないんだから。

たまにそんなことぐらいわかってよ!みたいな人いるけど、悟られたいか?ぼくはごめんだなぁ。おっぱい見てるのばれる。あの人尻薄くて最高だなとかバレたら死ねる。というか捕まるし殺される。

 

 

 

ちなみにぼくは自分で完結できるけど、「えっ水くれるんすか?マジで?ウィースあざーす」みたい感じ。

特に必要ないときに水くれる人いるけど、その時々に断ったりもらったりもするよ。例えばそれが、全員に水あげなきゃ!という焦りに駈られてる人からだったり、全員にあげてるからこの人にもあげないと外聞が…という人からだったりしたら、まぁ甘んじて受けたりもする。ぼくにわかる範囲で察せられるならば、さすがに断ったりはしない。ひいてはそれはぼくのためになるのだから。

もちろん、これ以上は腐ると思えば断るけどね。

 

 

僕自身、他人から水が欲しいアピールを露骨にする行為の対応ってそんなに得意じゃないんだけど、だからってその人が嫌いではなければある程度は付き合うぞ。

社会にいる以上、あからさまな拒絶っていうのは、何よりも自分のためにならないので。

それは学校や会社に限った話じゃなくて、何らかのコミュニティー、つまり友達間や家族間でもそうなわけで。壊れたものは修復できるけど、なかったことになるわけじゃないんだから、いずれ戻れなくなる。

よく壊れてきってしまったことを「その程度だった」なんていうけれど、その諦めはひどく悲しい。 それを繰り返せば誰もいなくなると言われて続けて「別にいい」とか「誰かいるし」と返すのは、いずれが来ていないだけに過ぎないんだけど。まぁ自覚できたらそんな返ししないよねっていう。

いずれが来たやつが「コミュニティーの中」にいると思うのか?

 

 

ぼくは自己完結できるけれど、ぼくが育てているのは「外に出してもある程度対応できるぼく」なので、外に出るたび、すりあわせを行うたび、いつだって怯えているよ。恐れているよ。ぼくの死を思うよ。

他者からある程度認知されていて、可もなく不可もなく、ぼくをはしっこに置いてくれて、ぼくが去るときはほんの少し惜しまれるような。

ぼくが好きな人たちに、ぼくに関わってくれている人たちに、そんな素敵な人たちとの縁を「その程度」で終わらせないような。

せっかくつかんだ縁を終わらせてたまるかと思うし、ぼくをその程度だと思わせてたまるか、という今までの努力と、その上に成り立つ傲慢を巻き込んで。

そうして、社会に出てる。ぼくを出している。これは作り上げた嘘でも人格でも外面でもなく、正しくぼくが活動していく姿である。

 

ぼくの怯え。それがバレなければ、そんな風にも思わせなければ、その匂いを感じさせなければ、ぼくの勝利だ。

ここで書くことによって知られるけども、もし会ったときにぼくの努力を感じなければ、それは勝利どころか大勝利ですね。

ちなみに性格上のビビりと怯えはまた違うので悪しからず。ぼくの怯えはあくまでも、社会に生きてて平気か否かだけなので。

 

 

さーて傲慢を振りかざしてお偉いさんとのお食事会頑張ろうなぼく。死ぬ。

遊びたい話

 

遊びに盛りのついた犬って感じです。遊びたい欲求ってどう落とし前つけてるんですかね?

 

 

 

 

 

 

 

め っ ち ゃ 遊 び た い 。

 

具体的には、というものではなく、なんか遊びたい。一人でも別に構わない。本を読むことも遊びだし、お散歩も遊びだし、誰かと何かをするのも遊びだ。

東京になって、家から片道一時間半になった。ぶっちゃけそれが苦というより、純粋に休む時間がないのがしんどい。家帰ってからいつも寝てる。結局寝てる。そのせいで何もできてない。それがしんどい。

そのせいか、遊びたい欲求が半端なくある。遊びたい。とにかく遊びたい。普段の業務がつらいわけじゃないし恵まれてるから楽しいけど、やっぱり責任感とか、そういうのがひっそりと積もっているのだ。ただ単に、快楽を追求したい。

 

ぼく自身とはいつだって遊べる。だから今いろんな人と遊びたい。ぼくと遊んでくれるならば飛び込んでいきたい。でも性根がビビりなので怖い。

本当にぼくと遊んでくれるのか?

声をかけるのは相変わらず苦手で、待ってるだけの自分が嫌いだ。過去にそうされた経験があるのだろうか。忘れた記憶があるのだろうか。それとも、自分がそうした記憶だろうか。

 

いつか直るかといえば直らないに決まっていて、どうすればいいかなんて決まっていて。

遊びたいなら、ちゃんと言わなきゃダメだなぁ。断られることは怖くない。ただ、惰性で同情で迷惑で付き合わせたくない。

いや、待てよ、断られることは別に構わないんだから、声をかければいいのでは?みんなそんな心しんどい趣味があるのか?ぼくが知らないのならば、それはないことだ。そうやって生きてきたのをたまに忘れてしまうけれど、この前同期に言ったばかりだった。思い出してきたぞ。ぼくは一周まわってどうでもよくなる人間だった。 なんだこの自問自答。頭すっからかんにもほどがある。でもそういうブログ。

 

 

 

予期不安、この前学んだ。今なにやるかが大切なんだった。遊ぼう。よーしおじさん頑張っちゃうぞ~

骨の話

 

がっつり人の骨の話なのでご注意下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくは一回だけ、人の骨を見たことがある。祖父のものだ。

一昨年の秋に亡くなったが、よく考えたら一周忌にぼくだけ参加していないことを思い出した。忙しかったのも事実だが、まぁその事実よりも何倍も大きかったのが何故行かなきゃならないんだろう、だったわけだけど。

 

葬式は休みをとって行った。

骨を骨壺に入れる作業は、どちらかといえば落とさないようにという緊張であまり覚えていない。この骨はどこの部位だとか、そういったことを説明されて、変なのと思ったことは覚えている。

棺のなかには花や葉っぱを入れた気がする。特に覚えていない。そうして棺が運ばれて、ご飯を食べて、しばらくたったあと、骨になっていた。

 

 

 

ぼくの記憶では、特に骨に色がついていたことはないのだけれど。たまに、骨が何色かに染まってることがあるらしい。

 

迷信というかなんというか、噂では「ガンの人は色が変わる」「薬のせい」「体調が悪かったから」など、大抵病気と治療のせいにされることがほとんどだが、実は違う。

骨に色がつくのは、棺に入れた「花」のせいだ。

紫の花を入れたからといって紫色に染め上げるとは限らない。残りやすい色素があるだろうし。それに、やっぱり年齢なんかでも染まりやすさは変わってくるだろう。でも不思議だ。花で染めあげられるなんて。

 

もし心ない人が、骨の色を見て、骨が有り得ない色になっていたとして、汚れていると言っても、それは副作用でも病気でもなんでもなく、お花の色なのだ。それを説明して理解してもらうのは大変だろうから、ぼくはちゃんと理解しておきたい、知っておきたいと思った。あなたが汚れているなんて、そんなことはない。

 

もし気になるのであれば、やっぱり棺には何も入れないのが最良の選択だろう。

だけど、ぼくなら、棺に大量の花をいれて欲しいな、と思った。グラデーションになるように、ぼくが花で染め上がったなら、なんかちょっとおもしろいんじゃないか。

 

さすがに、それを本気きって親に伝えることはしなかったけれど。

 

 

心理学の話

 

アドラー心理学、ご存じでしょうか。日本でも結構人気らしいですね。ぼくはこの前初めて聞きました。でも話聞いてぼくじゃん…ってなったので、アドラーとぼくはズットモだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

アドラー心理学の基本を大まかに言うと、

「自己受容」

「他者信頼」

「他者貢献」

の3つにわかれるらしい。

自己受容が出来て初めて他者信頼が成り立ち、そして他者貢献ができるのだとか。その考え方には全面的に同意。

 

 

さて、まぁ字面からわかるけども、殆どの人が躓くのは「自己受容」かな。ありのままの自分を受け入れること。ぼくも同じようなことを、「自分を認める」と表現して言ってたかも。

メンタルコーチングやってる人の話聞いて、「受け入れる」の方が柔らかく優しいと思った。「認める」「認知」「認識」だと、人によっては響きが強すぎる可能性があるなぁと。何気ないものだから誰も気づかないけど、その心のうちでは響きの強さに引いてるかもしれない。

 

「自己受容」は自分のいいところ悪いところ全部引っくるめてこうなんだと、否定も肯定もせずに、そうだなぁ、自分という器に落とし込むことなんだろうな。

 

受け入れるって使わなかったのは、ぼくのなかでは「受け入れる」という響きが柔らかすぎるから。真綿で首を絞めるじゃないけど、柔らかすぎてぼくがバカになりそうなんだよね。やってることは同じはずなのに。

人によってそんな感じに言葉の雰囲気が違うから、言葉を受ける側も自分の言葉に咀嚼した方がいいと思う。

 

 

 

「他者信頼」も「他者貢献」も、読んで字の如く。そしてこれらは「自己受容」して初めて成り立つものだ。自分を受け入れられていない人を誰が信頼するか?信頼関係って一方的じゃ成り立たないし、まやかしはそのうち破綻しちゃう。

実際世の中じゃ、自分を受け入れられてないと「思ってる」人ってきっと多い。あえて思ってると言ったのは、100%受容できてなくても、半分以上はみんなちゃんと認められてる。ただやっぱり嫌なものが強烈で、良いところや好きなところが見えなくなってるんだよね。

ぼくが昔あったのは、嫌だ~っていう煙が覆い隠してるイメージ。なんとなく向こうにぼくの素敵な部分があるのは分かるんだけど、嫌だ~っていう煙がぼくの中で充満して、煙たいからそれしか考えらんねぇの。

 

鬱病の人がカウンセリングに来て話すのは「仕事で失敗しました」がやっぱり多いらしい。話を聞いて、「じゃああなたがやって来たお仕事、細かくてもなんでもいいから全部書き出してください」って言って書き出させて、お仕事の内容が仮に300個あったとする。「この中で何に失敗したの?」って聞くと、2,3個なんだよね。3/300ですよ。つまり、297個もある成功は無視なの。だからこれらをちゃんと認めてあげようね、ってところかは始めるんだって。

 

この話を聞いて、他人事だから「なんで認めらんねぇんだマゾかよ…」って思ってたけどさ。なんで認められないのかっていうと、その人にとって、その297個の成功は「当然」なんだろうね。

「成功して当然」「そうなるべくしてなった」って思い込んでる。だからこそ失敗が許せない。何故なら「成功して当然で、そうなるべきもの」だから。出来て当たり前だから。

そういうものの声を、ちゃんと拾ってあげなきゃな。だって「当然のように」成功させたんだよ。あたかも俺こんなん楽勝ですけど~?みたいな感じで出来たんだよ。ぼくすごい抱いて。

基本他の人は誉めてくれないじゃん。慣れとかあるし。だからこそまず自分が認めて誉めてあげなきゃ。だってそれだけ成功してるんだよ。すごいじゃん。

そのぐらい成功してるのに失敗したって言うなら、人間常にしてる呼吸なんか当たり前の極みじゃん。でも過呼吸になる。歩いてても躓く。そんなん。

といってもね、理想の俺との違いに耐えられないんだよな。わかるわかる。だからこそ、その理想の俺を作っていけてる部分、つまり成功部分をみなきゃダメだよね。ちょっと自分ー成功ちゃんのこと蔑ろにするのやめなさいよー。自分の一番身近な理解者は自分自身なのよー。

これぼくの残念ナルシシズムかと思ってたら、普通に推奨されてることだった。厨二でもなかった。アドラーとズットモなだけある…ぼくすごい…。

 

 

 

まぁ一般論でもよく言われるけど、やっぱり自分が幸せじゃなきゃ何もできないよ。そんでもって、自分の幸せがわからなきゃ幸せになれないよ。 

アニメ見て幸せなら、アニメありがとうと一緒に視聴した自分を誉めればいい。あのとき視聴したぼくナイスすぎる…。見なければこんなに心が穏やかになれなかった…みたいな。

聞いたことないけどみんなきっと誉めてない。ぼくはめっちゃ誉めてるしな…ツイートもするしな…あのときTL見たぼくis神…。

ついついTL見て楽しくて寝なかったりするけど、寝なかった自己嫌悪と同時にちゃんとよかった、楽しかったことも思い出さなきゃね。せっかく見てた意味を自分で消すなんてとんでもないぞ。

ぼくを一番に守るのはぼくだけ。ぼくが避けたいものに気づけるのもぼくだけ。

ぼくを幸せにできるのはぼくだ。

 

最近詰め込んでばっかりで文章ぐっちゃぐちゃだな。

でもまぁ、ぼくが他人から見て幸せに見えるのならば、ぼくはぼくを幸せにできてんだよ。やったー!!!!ゲームしよ。

肯定の話

 

 

否定から入るのは良くないとよく言いますが、どこからが否定なんですかね。個人的には一拍置くだけで言いと思います。そうなんだ、でもぼくはそう思わない、とかね。要は一回あなたの話を聞きましたよというのが重要なんですよね。

日本の若者の傾向として、最近は全体的に読解力が落ちてきてるので、もうちょっとクッション置いたほうがいいかなぁと留意しています。切に感じる環境に身を置いてるので、ぼくも気を付けよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母の友人がリフレクソロジーやリラクゼーション、なんたら療法系に精通している。母がその人に会うたびこんな話を聞いたことがあると話してくれるのだがまぁ世の中広いもんだなぁ、とその度に感心する。

そういったなかでヒーリング音楽やアロマはだいぶ浸透したものだ。川のせせらぎ、森のさざめき、鳥の鳴き声といった自然の音、ジャズやクラシックなどの柔らかな楽器演奏のCDを見かけるようになった。ジブリアレンジとかもあるね。

テレビでやってる音のソノリティーという番組もある意味ヒーリングなんかな…あれすげぇ音するときあるけど…。

ぼくはあまりヒーリング音楽とか聞かないけど、もちろんヒーリング音楽もアロマも落ち着かせたりいろいろ効果があるのはしっている。

言葉がない歌は寝るときにいいよ。眠いのに中々寝つけないときって頭のなかで余計なこと考えてるせい、ってのがあったりするので、ひたすら脳内で「あーーーー」とだしつづけるのもよい。あとは理解できない言語の歌とかもね。ニーアレプリカント/ゲシュタルトの歌は架空言語だから最適だなぁ。モンハンもだわ。

 

 

まぁ癒しのなんかっていうか、母の友人はどちらかといえば話を聞く方の人なんだけど。ぶっちゃけそういう話を聞いて欲しい人って背中を押してもらいたい人なので、コツを掴めばぼくでも背中押せるなぁと話を聞きながら思ったり。

 

例えば、「彼氏と別れたけど別れたのって正解だったのか、どうしたらいいかわからない」って相談があったとして、それに答える必要ってあまりないと思うんだよね。つまるところ正解なんてわからないし、実際欲してるのも納得と安心なんじゃねぇかな。

だからくどいレベルで話すならば、

「そうなんだ、悩んで辛かったね」の労り、

「きちんと悩んだり、考えることができてる」の褒め称え、

「あなたは考えられた時点で前を向いてる」の認知、

「あなたはちゃんと決められた」の肯定、

「だから決めたあなたを信じてあげて」

で選択したことに対する同意とあたかもアドバイスしたかのような演出、そして後押しでフィニッシュ。なんて身も蓋もない。

 

でも基本この組み合わせだと思うんだよね。

すごいわざとらしくやったけど、細木数子?のようなパターンだって煽るように言うだけであって根本変わらないし。

「はぁ?あんたもう自分でちゃんと決めてんでしょ!なんでこんなとこでうじうじしてんのよ!シャキッとしてケリつけなさいよ!いつまでもみっともないわよ!」

みたいなね。言い方が荒いだけで、ちゃんと認めてもいるし同意してるし背中押してるし、基本的なことは大体守った上でのきつい感じだと思う。

 

 

そんな感じでわざとらしくやったから「うわ…」感満載だけど、バカにできないのがこれ。初対面なら正直守って損はないからなこの言い方。超重要。

否定の場合がないじゃん!ってなるかもしれないけど、普通に会話で使うなら、「労り」「認知」「同意」、そして肯定の代わりに「提案」を入れたら完璧なわけで。否定じゃないのがミソ。

露骨にやるから胡散臭いだけで、こういうなんたら療法も無下にできないなぁと思う。実際人の心つかめてるんだから、コミュニケーション能力アップの糸口があるんだよね。むしろ否定しない分、とっつきやすいのでは。

 

 

 

食べ物の好き嫌いが多い人は人の好き嫌いが多いと言いますが、それは嘘だと思う。

ただ、食わず嫌いが多い人はそうだと思う。

何故ならちょっと嫌だと思った瞬間にシャットアウトしちゃうってことだからね。なるべくそういうのは減らしたいなぁと思っている。

 

 

 

だから誰かぼくとあんこう鍋食べに行きませんか!!!!

あんこう鍋食べてみたい。

 

 

 

切ないは夜に来る話

 

 

生まれながらにして、つまり先天的で慢性的な厨二病なら、もうそれは厨二病ではなくただの性格と考え方なのでは?疑問を呈していくスタイル。

というか、厨二病で†ダークネス†が一般化するよりぼくのほうが早く生まれてるだろ。さすがにショルダーフォンではなかったけど、携帯電話の画面緑だったぞ。

 

 

 

 

 

 

 

夜に考えて送ったメールは、朝になるとこっ恥ずかしいものになるらしい。朝のほうが冷静なんだって。ぼくは残念ながら一緒でした。いつでも恥ずかしいならそれは普通である。

未だに、ぼくの赤と君の赤が同じだと証明する手段はないんだよなぁ、と考えている。

同じ言語じゃない可能性も微レ存、なんて思ったりもするけど、どれもこれも悪魔の証明で成り立ってる。ぼくの赤を誰も証明できないから君とぼくの赤は違うってやつ。証拠がないことを逆手にとる手法ですね。確か。

 

 

 

 

そんなぼくがしょっちゅう夜に思っていたのは、ビビリストで小心者特有の誰からも好かれていない症候群な。くっだらないので書かないけど、一通り考えたところで、考えても仕方がないことで、何よりもこう考えていることが自己中心的、自意識過剰の現れなのでは?と第四の俺が出て来て幕を閉じる。今日もよくわかりませんでしたー!

 

ぶっちゃけ本音で嫌われてようがどっちでもいいな、と思ったので最近この思考めっきり減りました。いつも疑っているなんて、それはそれで失礼だし。めっちゃ嫌ってんのに何故か遊んでくれる人はあの、悪いこと言わないからもうちょっと日の元で遊ぼうね。健康に悪そう。

 

 

 

今は専らイケメンになるための方法考えてます。ぼくの夜の切なさは、イケメンじゃないことに切ない、です。イケメンになりてぇ~~~床ローリング。

人に嫌われたくないならば、嫌われてるかどうかを細々探るよりも嫌われない方法を探すほうが簡単だからね。同じネガティブでもさ。

みんながみんな、わかりやすく嫌いアッピルしてくれればいいけど、んなことはないので。

 

まぁ別に何かあれば喧嘩すりゃあいいと思うんですけどね。喧嘩。言い合いとか口論でも可。余裕でアリ。河川敷で殴りあって一緒に段ボール箱に入って川に流された子猫を救おう。

ネットじゃ喧嘩しようがないけど。加えて喧嘩より何より、仲直りという概念がない。

ぼくとしては寂しいんですけど、ネットなんてそんなものですか。そうですか。追い求めすぎですか。友達欲しいマンは強欲。

ぼくはVRでもARでもないので中々心にきますけどね。臭いものに蓋、っつーのは。

 

そんで余裕があればもっと自分を好いていたい。自分が納得できる、好ける方法を見つけ出せたならば、それは無敵でとても幸福なんじゃないだろうか。絶対に裏切らない最強の味方is俺。といってもさすがのぼくでも、自分にマジギレ事案はたまにある。この前ぼくのうっかりミスで170部刷り直したときは自分五度死ねって思った。人間だもの仕方ないね。

 

 

あーあ、無敵になりたい。

声の話

 

みんなどのくらい自分の声好きなんだろうな。

昼飯食ったところの店員さんがとてもいい匂いだったのを感じながら、ぼけーっとお会計してました。 

 

ぼくはあんまり自分の声にいい印象ないです。嫌いなわけではないのがポイント。

今は特にいい悪いの印象もなく、無難に普通に使っております。声帯。

そういやこういう話のとき、気にしてないよ~って言ってもめっちゃ気にしちゃう人いるけど、なんでわざわざ鬱に入りに…。

他人の話聞くの避けたほうが幸せなのにね。でも聞いちゃうビクンビクンショック死、みたいな感じかな。

ぼくにとって声はアウトプットの必需品だから切っても切り離せないし、ちゃんと好きで、大切です。

 

 

 

 

 

 

中学時代、上の連中に声をバカにされたことがある。中1の春とか夏なので、突然上の人間が力を持ち始める理不尽にまだ身も慣れてなく、わりとしんどかったおもひで。

連中、体育着はズボンにインしろとか本当つまんねぇところばっか見てるんですよね。靴下の長さも決まってた。校則ではなく横暴で。

全国どこでもこれが普通なことなのか知りません。でもぼくにとってはぼくが受けたものが一番しんどいので、しんどかった。そして本当クソだなと今でも思うよ。部活動の先輩ならまだしもお前誰だよっていう。

 

そしてまた中学時代の話ですけど、声が好きだと言われたこともあります。アップダウンが激しいね。

これはいいことなんだろうけど、バカにされた経験があるぼくには良いものではなかった。ぼくは別に好かれたかったわけじゃなくて、普通になりたかった。目立たなく、ただなんとも思われない、ぼくの声が欲しかった。

この声が好きと言われた、というのは、友達同士の気軽な「声?普通にいいと思うよ」じゃなかったので、なんつーか、声にたいしてどうしていいのかわからなくなった。

 

普通は気にせず気にすることもないとは思うんだけどね、なんかもう普通に嫌がらせ受けたしね、恋愛だしね、思春期だしね。仕方ないね。

そして持ち前のビビりも合わせ最強のチキンが完成したのであった。

 

 

 

 

 

 

今は普通です。声を気にしてない人が声を気にしない感じに声を気にしてない。ちゃんと好きだし、大切。自己愛強めでいこうな。

 

こうやってゲームにもネット対戦、オンライン接続が普通になって、そんでイカで一緒にやってくださる人が増えて、イプしたりすることも増えて嬉しかったです。マジで。遊ぶの大好き。

またちょっとあれな話ですけど、イプするようになって、そこでまぁめんどくさい方に絡まれたので、今後は身の振り方気を付けないとなぁ、と思ってる。みんなも気をつけようね。

中学時代と同様に、ちゃんと蹴りつけたので今はハッピーライフです。中学時代と同様にクソ死ねっておもってるけど。 

 

 

 

そもそもぼくが声をぐだぐだ気にしていると、みんな声を気にしてくれちゃうから、きっぱりやめました。こういう風に話に出すけど、今現在後ろ向きじゃないからおっけー。前向き。

 

お喋り楽しいし、TRPGも楽しいので大好き。これからもっと遊んでいきたいし、実際にいっぱいいろんな人と遊べたらなぁと思う。思ってるんだけど、みんな本当に遊んでくれるのだろうかとぼくのへっぴり腰が尻込み。腰なのにな。

いっぱい遊びたい。もったいない。やりたいこといっぱいある。遊ぼう。今年は動くって決めた。

 

 

ぼくの人生は50年です。今は半分ぐらい。あと半分しかない。そしてスプラトゥーンからもう二年経ってしまう。早いね。

遊ぶぞ。